人生詰んでも酒を飲む

生まれてこのかた、生きることを面倒に感じなかった瞬間はなかった。そんな僕もお酒を飲んだら元気になります。

Bライフと「隠れて生きよ」

 キーワード:エピクロス、「隠れて生きよ」、Bライフ、小屋暮らし、共同体、社会心理学

 

 こんにちは。詰んでる君です。以前、こちらにエピクロスの快楽主義的な生活への憧憬を書いておりました。この記事の結論は、若いうちのその日暮らしとして、そのような生活を持つことは可能かもしれないが、年を取ると孤独死につながりかねないというものでした。

 

 僕は、そのような理由で二の足を踏んでいますが、これを実際に取り入れて生活している人々もいるようです。例えば、Bライフといって安い土地に小屋を自分で建てて暮らすという方法が少し前から話題であるそうです。次のように、テレビ番組でも取り上げられています。

 とても快適そうな暮らしですね。不自由さも生きる糧にかえて、苦痛を避けて、日々を楽しむという姿勢が共感できます。一方で、コメンテイター(≈ 社会的なステイタスのある、いわゆる知識人)はこの暮らしに否定的であるようです。「もっと働け」という意見については、Bライフの趣旨に反するものなので議論の対象とはしませんが、「この暮らしは若いうちだけだ」「生活というよりも遊びだから、将来性がない」という意見については考えてみる必要がありそうです。意見の中身については、先の記事で僕の書いたこととほぼ相違ないでしょうから、掘り下げることはしません。それよりも、こうした意見がどれほど適当なのかを考察してみたいと思います(といっても、最近の流行なので、実際に若年にBライフを始めたまま初老を迎えた人のサンプルは見当たりませんでした。ご存知の方が居たら教えていただけると嬉しいです)。

 

 

若いうちでもBライフを離脱する事例

 少し調べると、若い人でもBライフを離脱してしまう事例に当たります。これは、心身の不調が原因となる場合が多いようです。次の記事の高村さんの場合には、孤独感によって精神状態が悪化したようです。いくら、孤独を愛する人であっても、Bライフ開始当初の高揚感を失してしまえば、絶望してしまうのかもしれません。エピクロスもアタラクシア(心の平静)には友人の存在を前提していたように、人との交流が極端に少なくなってしまうとよくないようです。

 

 さきほどのテレビ番組でも取り上げられていた吉田さんの場合はどうでしょうか。彼は、身体の故障で小屋を離れるという選択をした期間があったようです。その様子が次のテレビ番組で紹介されています。若年でも身体を壊す可能性があるということは、年老いるとそのリスクがさらに高まることが考えられます。彼の場合には若いので、親類に頼ることができました。しかし、年を取ってから同じことが可能なのかは明らかではありません。

 

 既存の地域共同体との関係性の中で、その土地に定住することに嫌気がさしてしまうという場合もあるようです。最初に取り上げたテレビ番組では、地域も歓迎している様子が取り上げられていました。しかし、それは、流入してくる若者の力を低コストに自治体運営に取り入れたいという考えを反映しているものとも考えられます。例えば、吉田さんの場合は自治会長が「自治会費を払え」と怒鳴り散らすという出来事に遭遇したようです。結局は苦痛を与えてくる人間と接しなければならないとすれば、Bライフを始めた意味もなくなってしまいますね。さらに、地域にとって利用価値のないとみなされる人間(彼らが高齢であったとすれば、そう見なされるかもしれません)がBライフを始めた場合には、近隣から後ろ指差される羽目にもなりかねません。

 

 

「Bライフ共同体」という解決策は「ムラ社会」に戻っていく

 こうした事例からは、やはりBライフは持続可能性が低いことが考えられます。それでも、Bライフを続けていくためにはどういう方略が考えられるのでしょうか。

 例えば、Bライフを営む人々が寄り合って土地を購入し、共同体を形成するというのは一つの方法ではないでしょうか(「Bライフ共同体」とでもします)。最初に示した動画では、近隣の小屋の住民が集まっている様子が示されています。このような状況においては、孤独に心を病んでいくことは避けられそうです。また、住民同士で互助することで、負傷者にも対応できるかもしれません。新たに共同体を作れば、既存の共同体と個人の関係性を薄めることもできると考えられます。Bライフという共通の信念を持った人間同士が寄り合えば、ほかの共同体運営よりはストレスフリーになることも考えられます。

 ただし、Bライフ共同体も所詮は絵に描いた餅に過ぎません。人が何人か集まると生じてくる問題というのは必ずあります。例えば、「社会的ジレンマ」といわれる問題です。先ほど共同体内での互助といいましたが、自分は相手を助けたとしても、相手が助けてくれるとは限りません。その反対もあります。これは、相手を助けるということは自分にとってはコストに過ぎないからです。同じ理屈で、みんなで取り決めたルール に従って共有地運営をしようとしても、ルールに従うのはコストのかかることだから誰も守らないという「共有地の悲劇」という状態も起こります。社会的ジレンマをどうにかするためには、報酬か罰を利用するしかありません。これを利用する際に、一番低コストでできるのは「村八分」という方法になってしまいます。

 また、人間は集団対集団になったときに、一層相手に憎しみを燃やすという性質があります。たとえば、東アジアの国家(という名の集団)間は仲がいいとは言えない状況も、この性質が影響しているといわれます。この性質によってBライフ共同体と既存の共同体の関係がますます悪化してしまう可能性が考えられます。これを解決するために、Bライフ共同体をつくるには既存の共同体との物理的距離が大事になります。裏を返すと、インフラや公共サービスという意味では不利になるということです。そうすると、より一層、共同体成員の互助が重要になります。これは社会的ジレンマを免れません。

 ということで、「Bライフ共同体」という方法を使ったとしても、新たな問題を孕んでしまいます。これらの問題は、Bライフを志向する人々にとっては一番堪えがたい問題なのではないかと推測します。なにしろ、相互監視の「ムラ社会」に戻っていくだけなのですから。ここでは極端な例をとりましたが、これを緩やかにしてみると案外うまく機能する可能性もあります(実はこれをうまく取り入れているのが都会ということになるかもしれませんね。)。

 

 ……この記事でも結局、「隠れて生きよ」の実現は困難だという結論をしないと行けなくなりそうです。しかし、Bライフという試みは非常に面白いですね。生き方を知るうえで参考になりました。