人生詰んでも酒を飲む

生まれてこのかた、生きることを面倒に感じなかった瞬間はなかった。そんな僕もお酒を飲んだら元気になります。

人間合格

小生、詰んでる君。

人生詰んでも、生きてれば腹が減る。

レンジでチンのお米を食べる。

ああ、生きてるなあ、と思う。

お酒も飲みたいなあ。

お酒を飲めば、ますます、生きている心地がする。

ああ、生きている。

不安に突き動かされて、心臓が早く脈打つ。

張り詰めたように、胃が痛む。

ああ、生きている。

最高に気持ち悪い、息が苦しい。

僕も、しっかり、人間なんだなあ。

昨今のブログって

詰んでる君です。

昨今よくあるブログってめんどくさいですね。知識もない癖に、ハウツーで気取ったこと書いてみたり。いかにも俺は価値のある情報を提供してやっているから、俺の記事のアドを踏めって感じが見え透いてます。読んだときに、ふむふむ、なるほど、と納得してみても、後になって心に残ってる記事なんてそう多くは無いものです。

インターネットも粗製乱造の時代です。個人のブログはおろか、企業がライターを雇って書かせている記事も信用なりません。専門的な知識があれば鼻で笑ってしまうようなことを大真面目に書いています。そんなものに権威を感じてはいけません。所詮は、一文字0.05円くらいで素人ライターを雇って書かせているものにすぎません。

その点、このブログは、そもそもが僕の思ったことを書く場所です。内容的は、ほかの多くと同じで信頼すべきものではありませんが、非営利の血の通ったものです。どうせ、大して読む人なんていないでしょうが(アクセスしてもらう工夫をしていませんので)、偶然読んだ人で気になった方がいればコンタクトをとっていただければ嬉しいです。

二週間ずっと引きこもり

どうも。詰んでる君です。

とてもやる気が起きません。今が転機で、これから次に行くためには今負っている社会的責任を果たさねばならないのですが、そんな気力もありません。外に出ようとすると、人に会うのではないかと心配で動悸がしてきます。おくすりで何とか抑えないといけないんですが、お薬を飲んだりご飯を食べたりするのもおっくうなので、晩に一回食べて、忘れてなければおくすりのんで、という感じです。

周りはみんな頑張っています。高尚なキャリアパスを掲げて、日夜励んでいます。僕は、なにもしていません。何もできません。気持ちも晴れません。ストレスで、寝付けなかったり、血便が出たりしています。まあ、それでも生きていればいいのです。

ああ、生きるのは楽しいなあ。

「しょぼい起業」で隠れて生きる

 キーワード:エピクロス、「隠れて生きよ」、しょぼい企業、過剰適応、パーソナリティ障害

 

こんにちは。詰んでる君です。

前回、上記のエントリーでキャリアパスが崩壊した旨を書きました。そして、そのなかで、自らの過剰適応気味な性格を取り上げ、自らの本当にやりたいこととは何なのかということを考え始めたところです。

 

そして、僕の目指すべきはやはり、エピクロスの言うアナムネーシス(魂の平穏)にあるのではないかと考えました。これまでのエントリーでは、エピクロスのいう「隠れて生きよ」の実践は、若さという資源のある期間に限られており、老後は孤立や孤独死を免れないのではないかという結論に達していました。

この話題を最初に取り上げたのが上記の記事です。

こうした生き方の具体的な事例として、小屋を建ててひっそりと暮らすという「Bライフ」という生き方を選択した方々について触れながら考えてみてもいました。

 

いろいろシミュレーションしながら、「隠れて生きよ」は絵空事なのかと諦めかけていました。しかし、えらいてんちょう氏の『しょぼい起業で生きていく』という本を読んでみて、ここには光明があるのではないかと感じました。

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しょぼい起業で「隠れて生きよ」

えらいてんちょう氏のいうしょぼい起業とは、とても簡単に言えば、「暮らしの延長のような形で店舗を構え、店に集まってきた人たちと信頼関係を築いて手伝ってもらいながら経営してみよう」というような内容です(簡単に言いすぎて、本を読まれていない方には何が何だかわからないかもしれません。目からウロコといった内容ですので、ぜひお手に取ってみてはいかがでしょうか)。

これを読んだときに、すぐに「隠れて生きよ」という言葉がよぎりました。(1)必要最低限の欲求充足をする(必要以上の利潤を追求するのではなく、暮らしていくことを主眼においている)ことと、(2)信頼できる仲間内のコミュニティを形成して仲良く暮らすことというのは、エピクロスの思想と通ずるものがあります。そして、しょぼい起業ではこれらを形成、維持するのに十分な要素が整っていると考えられます。

(1)に関して、これまでのエントリーでは責任の少ない非正規雇用につくことや、貯金の切り崩しに自給自足などを組み合わせて生計をたてることを考えていました。しかし、これらの方法は、40代を過ぎてからは通用しずらくなってしまう可能性があります。一方で、しょぼい起業では店舗という基盤によって生計を立てることが可能です。自らがオーナーになってしまえば、年老いようが商いさえ軌道に乗っていればまだなんとかなりそうな気がします(これについては、僕は全くの門外漢なので自信をもっていえることではないですが)。しかも、自分の生活と商いがオーバーラップしているという点も心強いとおもいます。

(2)に関して、これまでのエントリーではこのことが最大の懸案となっていました。すなわち、ある程度歳がいって社会的地位もなく貧乏暮らししている人とかかわってくれる人などいないのではないか、コミュニティを何とか作ろうとしてもいびつになってしまうのではないか、とういったことが考えられていました。一方で、しょぼい起業では、店舗という場で信頼関係を広げていけば、そこに人が集まる限り、孤立してしまうことはなさそうです。

 

 

しょぼい起業と「信頼するという能力」

一方で、僕の気質からするとしょぼい起業が難しい可能性があります。つまり、僕は他人に対しての信頼感や安心感が低く、回避的であるということです。これまでの、エピクロスに関するエントリーが絶望的な結論になっていたのも、他人との新たな信頼関係を築くということから無意識に目を背けていたことに起因するのではないでしょうか。このため、僕がしょぼい起業を成り立たせるためには人間的に成長する必要がありそうです。

 僕は、典型的な「回避性パーソナリティ障害」なのではないかと疑っています(診断されているわけではありませんが、行動の傾向が典型的です。道端で知り合いを見かけると気づかれないようにしたり、人と親しくなることが怖かったりします。)。あるいは愛着障害というくくりになるのかもしれませんし、自己肯定感が低いといわれるかもしれません。精神科領域における、こうした類似の概念の関係性についてはここでは議論しません。しかし、いずれにしろ、パーソナリティとしては未熟であって、成長することで適応が容易になるものであるといわれています。

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僕は現在、ある意味での苦境に立っています。しかし、これはチャンスに他ならないとおもいます。これまでのようにやりたくもないことを我慢してやって自分をだまし続けていたら、反対に一生成長の機会を失ってしまうかもしれません。アルコールなどへの依存を深めて、事態が悪化していたかもしれません。

 

今なら、二本の足で、周りの支えを得ながら歩いていけそうな気がしています。『しょぼい起業で生きていく』中、えらいてんちょうさんとPhaさんの対談のなかで「現世なんて遊び」という言葉が出てきます。これは、なんとも励まされる言葉です。つい最近まで、意味もなく自分は「社会の落伍者」だと思い込んでいた僕も、肩ひじ張らずに、少しずつ着実に取り組んでみたいという気持ちになっています。ひとまず、前向きにやってみます。

自分のしたいこととは。

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こんにちは。詰んでる君です。僕はいま、人生の岐路に立たされています。

これまで設計していたキャリア計画がポシャりました。

そんなもの、何もしないでボーっとしていたら、すごく簡単に壊れるもので笑ってしまいます。

これまでの記事にもあったように、僕はかれこれひと月ほど引きこもっていました。そしたら、これまでやってきたことが無意味に思われてきたし、嫌気がさしていることに自分でも気が付いていきました。破滅の道を選んだのは一見無気力のたまもののように見えて、その方向に突き動かす無意識の力があったのかもしれません。

この破滅は僕にとっては却って望ましいことなのかもしれません。僕のこれまで志向していたキャリアというのが、自分の中の情熱を傾けるべき対象に見えなければ、手堅くお金を稼げるものでもありません。正直、僕の気質とも相性がよくないと思います。

 

僕は、ずっと過剰適応気味に生きてきました。周囲が期待していれば、自分のやりたいことなんて無視して建前でいきてきました。その結果、自分の本当にしたいことなんてわからなくなっていたのです。これまでのキャリア計画も、思えば子供の頃から言われ続けていた親の意向を大いに反映しています。また、周囲の人がその仕事に誇りをもって情熱を傾けていたことから、僕もそういう様子を演じなければ嘲笑されるのではないかだとか考えて、自分を偽って生きてきました。しかし、その代償が最近になって心身の不調として表れてきたのではないかと考えています。

このことは事情を知る当事者を除いては、親しい友人にも話していません。話す踏ん切りがついていないのです。僕は人を根源から信頼することができない身体なのでしょうか。こういう弱みを見せてしまうと、友人でさえ僕のことを軽蔑するような気がしてなりません。もちろん、これまでずっと支えてくれた友人たちがこんなことで去っていくのではないかという疑いを向けることは、僕自身としてもとても悲しいことです。もうちょっとして、吹っ切れたら、このことを打ち明けられればいいなあと願っています。

 

進んでしまった時を巻き戻すことは叶いません。これから、自分のしたいこととは何なのかを自問自答してみようと思います。自分にできることとは何なのかを探ってみたいと思います。多くの人が大学卒業時までに、それができているのに対して、僕の場合はそれが遅すぎたようです。しかし、これも、運命だとか僕の個性だと信じてみたいです。まずは、自分を受け入れ、自分の真意を相手に伝えられるようになってみたいです。なんだか、わくわくしてきました。

人目が気になって何もできない。

こんにちは。詰んでる君です。
最近、外に出て人目に触れることが億劫で、引きこもりがちになっています。どうしても、出かけないと行けないときにしか、外に出ません。

人は僕のことを嘲笑うのではないか、人は僕を叱責するのではないか、人は僕をとっくに見損なっているのだろうなあ、色々なことが頭を過ります。引きこもりがちになると、表情や服装などにも気を遣えなくなってきて、これらの不安が加速します。不安で、必要な作業も疎かになります。負のスパイラルに落ちていきます。

最近、やむにやまれぬ事情から、久しぶりに会った人から、想像しているような酷い対応を受けることはありません。むしろ談笑することもできました。しかし、それも会う人が偶々いい人ばかりだったからかもしれません。そんな場合でも、私は弱みを見せまいと頭のリソースをフル活用して応対します。正直、疲れ果てます。

さらに悪いことには、僕は、一番苦手とする人に長いこと顔を見せていません。その彼に会わなければ、さまざまな事態が悪化してしまうことも容易に予測できます。しかし、それに対処しようとするも、脈は早くなり、息も途切れ途切れ、とても生きた心地がしません。しまいには彼が早く僕のことを見切ってくれれば、私もラクになるとまで考えてしまいます。情けないです。

彼は、普段から気分屋です。機嫌が良ければ苦労もないのですが、機嫌が悪いと些細なことで突っかかってきます。悪いときには一時間近く、あなたは人として間違ってるなどという言葉を浴びせられます。しかも、彼は頭がキレるので、言葉のひとつひとつが論理的で、少なくとも日本の伝統的社会規範にフィットした正論を捲し立てるので、参ってしまいます。一見機嫌が良さそうに見えたとしても、油断なりません。彼は山の天気のようなものです。僕は、いつもビクビク怯えています。

「そういうのは気の持ちようだから気にしないのがいい」、というのが一般的に言われる対処法です。しかし、これは本当なのでしょうか。本当だとしたら、PTSDの治療などを系統立てて行う人々は何故いるのでしょうか。そもそも、気の持ちようを調整することは人間にとって可能なことなのでしょうか。――こういうこと考えることで、恐怖の所在から目を背ける生活をしてきましたが、そろそろ限界かもしれません。

世に出すことの重要性

 こんにちは詰んでる君です。ブログを書きながら思ったことがあったので記事を書いています。それは、ものを世に出すことが大切だということです。

 僕は飽きやすいです。なので、絵や、文章、その他、途中まで作業しても、自分の中でプツリと糸が切れたように投げ出してほかのことをし始めます。そしてそれもいつしか飽きて、また別のことをし始めます。これでは、何をやっても完結しません。完結しないということは、それは、心の引き出しにしまわれてしまいます。人目に触れることもないので、いつまでも、ほかの人の意見を聞くことができません。また、自分のなかで何かをやり遂げたという喜びに浸ることはないわけです。

 その点、ブログはやり遂げるということに対するハードルが低いと考えた次第です。文章を途中まで書いて飽きてきたら、適当なところで文章を結んで「公開する」を押すことができます。しかも、匿名ですから、これが僕という個人の書いた文章だということが、多くの人には伝わらないわけです。これなら、なんとか、世に出せます。

 このような心づもりで文章を書いておりますゆえ、雑多な記事もあるかと思いますが、皆さんのご指導ご鞭撻をいただけますと幸いです。