人生詰んでも酒を飲む

生まれてこのかた、生きることを面倒に感じなかった瞬間はなかった。そんな僕もお酒を飲んだら元気になります。

人目が気になって何もできない。

こんにちは。詰んでる君です。
最近、外に出て人目に触れることが億劫で、引きこもりがちになっています。どうしても、出かけないと行けないときにしか、外に出ません。

人は僕のことを嘲笑うのではないか、人は僕を叱責するのではないか、人は僕をとっくに見損なっているのだろうなあ、色々なことが頭を過ります。引きこもりがちになると、表情や服装などにも気を遣えなくなってきて、これらの不安が加速します。不安で、必要な作業も疎かになります。負のスパイラルに落ちていきます。

最近、やむにやまれぬ事情から、久しぶりに会った人から、想像しているような酷い対応を受けることはありません。むしろ談笑することもできました。しかし、それも会う人が偶々いい人ばかりだったからかもしれません。そんな場合でも、私は弱みを見せまいと頭のリソースをフル活用して応対します。正直、疲れ果てます。

さらに悪いことには、僕は、一番苦手とする人に長いこと顔を見せていません。その彼に会わなければ、さまざまな事態が悪化してしまうことも容易に予測できます。しかし、それに対処しようとするも、脈は早くなり、息も途切れ途切れ、とても生きた心地がしません。しまいには彼が早く僕のことを見切ってくれれば、私もラクになるとまで考えてしまいます。情けないです。

彼は、普段から気分屋です。機嫌が良ければ苦労もないのですが、機嫌が悪いと些細なことで突っかかってきます。悪いときには一時間近く、あなたは人として間違ってるなどという言葉を浴びせられます。しかも、彼は頭がキレるので、言葉のひとつひとつが論理的で、少なくとも日本の伝統的社会規範にフィットした正論を捲し立てるので、参ってしまいます。一見機嫌が良さそうに見えたとしても、油断なりません。彼は山の天気のようなものです。僕は、いつもビクビク怯えています。

「そういうのは気の持ちようだから気にしないのがいい」、というのが一般的に言われる対処法です。しかし、これは本当なのでしょうか。本当だとしたら、PTSDの治療などを系統立てて行う人々は何故いるのでしょうか。そもそも、気の持ちようを調整することは人間にとって可能なことなのでしょうか。――こういうこと考えることで、恐怖の所在から目を背ける生活をしてきましたが、そろそろ限界かもしれません。