人生詰んでも酒を飲む

生まれてこのかた、生きることを面倒に感じなかった瞬間はなかった。そんな僕もお酒を飲んだら元気になります。

僕の夢の話。隠れて生きよ。

 こんにちは。詰んでる君です。

 

 僕に夢なぞありません。まして具体的な展望もありません。そこにあるのは、精神疾患一歩手前のメンタルと、だらしなくたるみ切っていて、情けなくむくんだ赤ら顔をひっつけた体だけです。それでも、なんとなく、夢を見たくなりました。なにかしらを書いてみます。

 

 僕は基本的に学校の勉強は嫌いです。それでも、学校の勉強くらいしか取り柄がなかったので、それなりにはこなしていました。そんな僕が、一つだけ、学校の勉強で心惹かれたことがあります。それがエピクロスの快楽主義です。

 

 過去も現代も、幸せというものがフォーカスされることに変わりはありません。人間は幸せになりたいものです。そして、現代の社会・経済では、社会的成功を収めて、お金を貯めこむことこそが、成功のロールモデルであるようです。お金は幸せの代替手段であるとされます。お金があるから、飯を食える、服を着ることができる、寒風をしのぐことができる。お金があるから、教育を受けることができる。お金が有り余るから、美酒を楽しみおいしいものに舌鼓を打つことができる、ハイブランドを身にまとうことができる。マンションを買って、カリモクなんちゃらを置いて、有機ELの巨大テレビなどを置いて見せる。労働者を使役して心地よいサービスを享受する。

 お金がある程度までは人のQOLと相関することは間違いないでしょうが、他方で、お金は苦しみとの引き換えに得ることが多いです。煩雑な人間関係に身を置き、臭いけど権力と金のあるおじさま方にすり寄ってみたりする。投資をしてみては、ドナルドおじさまの身勝手で暴落した株価に胃が痛む。緑のなか気持ちよく散歩をすることを惜しんで、仕事に打ち込む。

 

 

 それでは、苦しみと幸せの収支決済はなんぼのものなのでしょうか。幸せをめざして贅沢をするためには、その分「おべっかを使うべきおっさん」が増えます。苦虫を噛みます。稼げば稼ぐほどよいというのは本当なのでしょうか。

 ここからは、議論に先述のエピクロスの快楽主義を導入してみましょう。快楽主義とは、苦痛の根源を取り除くことで得られる快楽を重視する思想であると、僕は理解しています。贅沢をそぎ落とすことによって、贅沢の刹那的な効用を得るために払われる犠牲や長期的な損失を抑えようとしたものです。快楽主義という名前から一般的に連想されるような、放蕩はしません。たとえば、お酒を飲みすぎることはその場では楽しいけれども、二日酔いになったり、疾患のリスクが上がるから、快楽主義には適っていません(僕も猛省します)。

 快楽主義は、苦しみと幸せの帳尻合わせをミニマムに解決する方法だと思います。帳尻合わせには、ストレスを相対的に小さくするか、幸せだと感じることを相対的に大きくするか、道はどちらかです。前者が快楽主義で、後者はいわゆる現代における成功のロールモデルです。

 しかし後者には問題があります。人間が「差分検出器」であるという問題です。どんなに暮らし向きがよくても、慣れてしまえば、それが物足りなくなります。暮らしの中に、「差分検出器」が検出可能な幸せを求めると、仕事に精を出し続ける必要が出てきます。それは持続可能なのでしょうか。僕には無理です。

 対して、快楽主義は凪のような状態です。苦痛がない時点で幸せなので、幸せにあることが苦痛となりにくいものと考えられます。もちろん、「差分検出器」問題はこちらにもつきまといます。しかし、もともとの状態が質素なので、贅沢をすることも、それに幸せを覚えることも簡単なのです。これを実現するために、うつ病になるほどの努力の必要がどうしてありましょう。

 

 さて、話は戻ってまいりまして、僕の夢の話です。僕の夢は「隠れて生きよ」の実践です。記事タイトルにも入れたこのお題目ですが、エピクロスの有名な言葉です。権力争いの人間関係の煩わしさを避けて、身体に障らぬように酒と食事を摂って、哲学を語りあう友人がいて――そのような場所でひっそり暮らしなさいという含意があります。現代社会から見れば実現不可能でしょう。だからこそ、夢なのです。

 それでも何とか現代に落とし込もうとすると、どうなるのでしょうか。職業は社会的責任が小さく、実力を問われない、一人でこなす仕事になるでしょうか。非正規雇用なのはほぼ間違いなしですね。あるいは、自営業という手も考えられます。自営で口に糊するには相応のスキルが必要です。その点では難易度が高そうですが、軌道に乗せられさえすれば、多少は持続可能性がありそうです。いずれにしろ、老後の不安は尽きませんね。人生に年限を決めて、そこからの余剰分はよほど生きたいという強い思いと境遇、健康な身体が残されていなければ、自死を選ぶことも視野に入ります。

 居所は生活に困らないように地方都市の郊外で、築年数の古い一軒家の借家でもあればいいのですが。お金がかからないことと、集合住宅ではないことは、非常に重要なファクターです。家具はリサイクルショップから好みの調度のものを少しくらい集めてといったところでしょうか。これについては、深く考えても仕方ないことです。

 後は、小さな交友関係さえ保つことができれば、「隠れて生きよ」の基本が完成します。しかし、「30過ぎた昔の友達が汚い風貌でボロ借家から出てきて、『さあ哲学の時間だ』と言って地に足のつかぬことを語ってきた」としましょう。相手方の立場から見て、この交友関係は維持すべきものなのでしょうか。あと10年もすれば、お金を無心しにきそうです。せめての話し相手になってもよいという程度の、人間性の高潔さを養う必要がありそうです。人並み以上の人生観で人をひきつけなければ難しいでしょう。

 

 「隠れて生きよ」の夢ですが、このなれの果てに孤独死というゴールが待ち受けていそうです。50を過ぎたからといって、死のうと思っていても死ぬことを先延ばしにしていたら死にきれず、僅かに残った貯金の切り崩しで口に糊する。あってくれる友人もいない。そんな生活のどこに自助のモチベーションがあるのでしょうか。いずれ汚かった身なりは、ますますひどいものになり、ゴミにまみれた借家の中。真ん中にひかれた煎餅布団から身動きをとることもせず。年老いた体は、エピクロスのお題目からは考えられないほどにガタが来ている。光合成もできず、土壌から栄養を吸い上げることもできない植物のようになってしまう。「僕の人生はこんなはずではなかった」という思考に埋め尽くされるか、それすら億劫で、禁止していたはずの多量飲酒におぼれている。

 

 はあ、なんとなく夢から目をそむけたくなりました。だれか、こんな僕とともに「隠れて生きよ」の実践について、建設的に考えてみませんか?僕はエピクロスの考えを皮肉るためにこの記事を書いたわけではありません。現代のエピクロスにあこがれて書いたのです。