人生詰んでも酒を飲む

生まれてこのかた、生きることを面倒に感じなかった瞬間はなかった。そんな僕もお酒を飲んだら元気になります。

Bライフと「隠れて生きよ」

 キーワード:エピクロス、「隠れて生きよ」、Bライフ、小屋暮らし、共同体、社会心理学

 

 こんにちは。詰んでる君です。以前、こちらにエピクロスの快楽主義的な生活への憧憬を書いておりました。この記事の結論は、若いうちのその日暮らしとして、そのような生活を持つことは可能かもしれないが、年を取ると孤独死につながりかねないというものでした。

 

 僕は、そのような理由で二の足を踏んでいますが、これを実際に取り入れて生活している人々もいるようです。例えば、Bライフといって安い土地に小屋を自分で建てて暮らすという方法が少し前から話題であるそうです。次のように、テレビ番組でも取り上げられています。

 とても快適そうな暮らしですね。不自由さも生きる糧にかえて、苦痛を避けて、日々を楽しむという姿勢が共感できます。一方で、コメンテイター(≈ 社会的なステイタスのある、いわゆる知識人)はこの暮らしに否定的であるようです。「もっと働け」という意見については、Bライフの趣旨に反するものなので議論の対象とはしませんが、「この暮らしは若いうちだけだ」「生活というよりも遊びだから、将来性がない」という意見については考えてみる必要がありそうです。意見の中身については、先の記事で僕の書いたこととほぼ相違ないでしょうから、掘り下げることはしません。それよりも、こうした意見がどれほど適当なのかを考察してみたいと思います(といっても、最近の流行なので、実際に若年にBライフを始めたまま初老を迎えた人のサンプルは見当たりませんでした。ご存知の方が居たら教えていただけると嬉しいです)。

 

 

若いうちでもBライフを離脱する事例

 少し調べると、若い人でもBライフを離脱してしまう事例に当たります。これは、心身の不調が原因となる場合が多いようです。次の記事の高村さんの場合には、孤独感によって精神状態が悪化したようです。いくら、孤独を愛する人であっても、Bライフ開始当初の高揚感を失してしまえば、絶望してしまうのかもしれません。エピクロスもアタラクシア(心の平静)には友人の存在を前提していたように、人との交流が極端に少なくなってしまうとよくないようです。

 

 さきほどのテレビ番組でも取り上げられていた吉田さんの場合はどうでしょうか。彼は、身体の故障で小屋を離れるという選択をした期間があったようです。その様子が次のテレビ番組で紹介されています。若年でも身体を壊す可能性があるということは、年老いるとそのリスクがさらに高まることが考えられます。彼の場合には若いので、親類に頼ることができました。しかし、年を取ってから同じことが可能なのかは明らかではありません。

 

 既存の地域共同体との関係性の中で、その土地に定住することに嫌気がさしてしまうという場合もあるようです。最初に取り上げたテレビ番組では、地域も歓迎している様子が取り上げられていました。しかし、それは、流入してくる若者の力を低コストに自治体運営に取り入れたいという考えを反映しているものとも考えられます。例えば、吉田さんの場合は自治会長が「自治会費を払え」と怒鳴り散らすという出来事に遭遇したようです。結局は苦痛を与えてくる人間と接しなければならないとすれば、Bライフを始めた意味もなくなってしまいますね。さらに、地域にとって利用価値のないとみなされる人間(彼らが高齢であったとすれば、そう見なされるかもしれません)がBライフを始めた場合には、近隣から後ろ指差される羽目にもなりかねません。

 

 

「Bライフ共同体」という解決策は「ムラ社会」に戻っていく

 こうした事例からは、やはりBライフは持続可能性が低いことが考えられます。それでも、Bライフを続けていくためにはどういう方略が考えられるのでしょうか。

 例えば、Bライフを営む人々が寄り合って土地を購入し、共同体を形成するというのは一つの方法ではないでしょうか(「Bライフ共同体」とでもします)。最初に示した動画では、近隣の小屋の住民が集まっている様子が示されています。このような状況においては、孤独に心を病んでいくことは避けられそうです。また、住民同士で互助することで、負傷者にも対応できるかもしれません。新たに共同体を作れば、既存の共同体と個人の関係性を薄めることもできると考えられます。Bライフという共通の信念を持った人間同士が寄り合えば、ほかの共同体運営よりはストレスフリーになることも考えられます。

 ただし、Bライフ共同体も所詮は絵に描いた餅に過ぎません。人が何人か集まると生じてくる問題というのは必ずあります。例えば、「社会的ジレンマ」といわれる問題です。先ほど共同体内での互助といいましたが、自分は相手を助けたとしても、相手が助けてくれるとは限りません。その反対もあります。これは、相手を助けるということは自分にとってはコストに過ぎないからです。同じ理屈で、みんなで取り決めたルール に従って共有地運営をしようとしても、ルールに従うのはコストのかかることだから誰も守らないという「共有地の悲劇」という状態も起こります。社会的ジレンマをどうにかするためには、報酬か罰を利用するしかありません。これを利用する際に、一番低コストでできるのは「村八分」という方法になってしまいます。

 また、人間は集団対集団になったときに、一層相手に憎しみを燃やすという性質があります。たとえば、東アジアの国家(という名の集団)間は仲がいいとは言えない状況も、この性質が影響しているといわれます。この性質によってBライフ共同体と既存の共同体の関係がますます悪化してしまう可能性が考えられます。これを解決するために、Bライフ共同体をつくるには既存の共同体との物理的距離が大事になります。裏を返すと、インフラや公共サービスという意味では不利になるということです。そうすると、より一層、共同体成員の互助が重要になります。これは社会的ジレンマを免れません。

 ということで、「Bライフ共同体」という方法を使ったとしても、新たな問題を孕んでしまいます。これらの問題は、Bライフを志向する人々にとっては一番堪えがたい問題なのではないかと推測します。なにしろ、相互監視の「ムラ社会」に戻っていくだけなのですから。ここでは極端な例をとりましたが、これを緩やかにしてみると案外うまく機能する可能性もあります(実はこれをうまく取り入れているのが都会ということになるかもしれませんね。)。

 

 ……この記事でも結局、「隠れて生きよ」の実現は困難だという結論をしないと行けなくなりそうです。しかし、Bライフという試みは非常に面白いですね。生き方を知るうえで参考になりました。

Alessandro MS1000(ヘッドホン改造)

キーワード:ヘッドホン、オーディオ、Alessandro MS1、Grado、塩ビ管、DIY

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改造後のヘッドフォン(通称Alessandro MS1000)

 こんにちは。ヘッドホンを改造してみて、数日聴いてみたので、記事を書きます。改造したのは、GradoのOEMで音屋で比較的安価に入手できるAlessandro MS1です。

 こちらは、ずいぶん前に購入して、標準パッドで使っていましたが、パッドがヘタって来ていました。そこで、パッドを交換することにしました。標準品を購入するのも面白みがないので、Gradoの上位機種であるGS1000やPS1000のパッド(通称ジャンボパッド)を購入しました。といっても、純正では1万円近いパッド(通称超高級スポンジ)で、僕はそんなにリッチではありません。仕方がないので、純正の10分の1の互換品を選びました。

 ジャンボパッドを装着してみると、これまでより装着感が上がり、音場が広がった感じがします。一方で、高音が強くて耳が痛い感じがしました。どうやら、Head-Fiなど、海外フォーラムを見ても、中音域が低下した、ひどい音になるという評判のようです。

 

Alessandro MS1000に行き着く

 Alessandro MS1とジャンボパッドで優れた音を作る改造方法が考案されていました。それが、通称Alessandro MS1000と呼ばれるものです。以下のリンクに詳細が載っていますが、要約するとドライバーの音出口に14mm程度のエクステンダーを接着して、そこにジャンボパッドをつけるという方法です。

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エクステンダーの寸法(https://www.head-fi.org/threads/alessandro-ms1000-and-ms-ultimate-diy-modding-56k-warning.323271/ より)

 

改造の実際

 木工をするには旋盤が必要です。3Dプリント版は送料を考慮すると、高くついてしまいます。そこで、これらの方法は諦めて、簡単に制作する方法を考えました。

 要するに内径40mmのペナペナじゃないパイプがあって、イヤーパッドをひっかける3~4mm巾くらいのフランジ(?)がついていればいいのです。これらの条件を満たす部材として、すぐ、塩ビ管(VP管)が思い付きました。塩ビ管は、スピーカーのエンクロージャーの材料としてもポピュラーで、入手性がよく、安いからです。おそらく、塩ビ管のジョイントなどの部材を探せば、先述の条件を満たすものがあるのではないかと、ホームセンターに向かいました。そして……

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 丁度いいのがありました。掃除口と呼ばれる部品で、一つ150円程度です。キャップがついていますが、ねじで外せます。

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 パッドもきれいにつきました。後は、こいつを鋸で適当な長さに切って切断面にやすりをかけて、側面に3箇所穴をあけてやれば完成です。フランジの下部分に12mm幅のマスキングテープを巻き、それをガイドに鋸で切ります。そして、切断したものを240番の耐水ペーパーに当て木したもので平面になるように研いでいきます。力が均等にかかるように、持つ方向を回転させながら作業するのがコツです。

 切断とやすり掛けが終わると、キリを使って、側面に穴をあけます。塩ビはやわらかい材料なので、簡単に穴があきます。削ったバリは適当にやすっておきます。それで、エクステンダーは完成です。後は、これを接着剤でヘッドホン本体に接着します。今回は、Gクリヤーを使いました。塩ビ管と本体の接合部がなんとなくみすぼらしいので、最後に自己溶着テープを貼って仕上げていきます。ブチルゴムなので、防振にもなるかもしれません(?)

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 ということで、完成です(写真が汚くてすみません)。自己融着テープの端部はジャンボパッドに覆い隠されるので、そこそこきれいに見えます。なにやらものものしい雰囲気になりました。

 

試聴、所感

 さて、試聴です。ソースはスタジオ録音のポップスから、コルトレーンなどのモダンジャズなど、普段聞くようなものを使っています。Zishan Z1からロスレス音源を出力して聞いてみます。

 最初に記した、高音域がうるさい問題は見事に解消されています。中音域に膨らみが出て、リッチな聞き心地です。また、低温の響きも心なしかよくなった気がします。ちなみに、MS1000では高音の調整方法として、エクステンダーにフェルトや布地をはることも提案されているので、音出口にメリヤス地を張ってみましたが、僕はないほうが好みだったので、外してしまいました(上の写真で出口に接着剤が残ってるのが見えちゃってますね汗)。

 そして、何より大きな変化は、音場が格段に広くなったことです。MS1というヘッドホンは、音場が狭くて、近くでなっているような元気な音で有名です。言い方を変えると、立体感がなくて、頭内定位してしまうヘッドホンでした。それが、解消されていて、浪々と響く音になっています。聴き疲れしにくくなっていると思います。これまでこのヘッドホンでは避けていたクラシックもいい感じに聞けますね。

 一方で、AlessandroやGradoの低価格帯は狭い音場で爽快になる音が人気のヘッドホンでもあります。今回の改造では、そうした要素はずいぶんスポイルされてしまったということもできるかもしれません。その辺は好みの問題もあるでしょうが、MS1000の音は、もともとが1万円ちょっとのヘッドフォンとは思えないものになったのは確かだと思います。

初夢

キーワード:自分語り、初夢、先延ばし、動機づけ

 

 こんにちは。詰んでる君です。

 

 初夢を見ました。目下、進行していない仕事について、昔嫌いだった教師が追い立ててくるという夢です。こうしてはいられないくらいにメンタルの状況が悪いので、早く仕事を終わらせてしまうべきだと、新皮質はわかっています。わかっているのですが……。いざ取り掛かろうとしてもすぐに逃げてしまいます。食事を作ったり、お酒を飲んだり、YouTubeの動画を見たり、こうしてブログを書いたり。ひどい先延ばしです。僕はちゃんと飯を食べていけるのでしょうか。

吐露。

キーワード:自分語り、依存症、アルコール、アダルトチルドレン、AC、いじめ

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(「かわいいフリー素材集いらすとや」さんより拝借しました)


 こんにちは。詰んでる君です。新年の抱負を先のエントリーに記していたら筆がのってきたので、散漫な駄文を書き連ねたいと思います。

 

 ブログタイトルからも察することができるかと思いますが、僕は、最近自分がアルコール依存症予備軍なのではないかと疑っています。毎日のように酒を飲みます。日によっては、一日中酒を飲み続けています。朝飯と一緒にビール、昼飯にもビール。夕食には焼酎や日本酒、ウイスキーなどをチャンポンします。それで、知らぬ間に多量飲酒して寝てしまっていて、喉が渇いて目が覚めるとビールで喉を潤します。本当は潤いませんけれども。夕飯や真夜中になることには、酒が喉に突っかかるようになってきていますが、それでも飲みます。職場でこっそりと飲むこともあります。休憩時間など、人目の付かない処に行って、ビールをゴクリと。罪悪感があってもやめることができません。飲みたいのです。

 依存症は、人に頼れない人がなりやすいといいます。僕も人に頼れない人間なので、疫学研究などの対象になったら、確実にエビデンスの一部になります(これは、冗談です)。人に頼れないので、酒や薬に頼ります。酒なんか、どうせ飲み始めたらその時点で酒に飲まれています。たかが知れているものですが、それでもすがります。

依存対象はshort-term solutionに過ぎません。 これはドラッグについての歌ですが、本質は一緒です。

 

 よく、人を信じられない人は、親子関係がどうとか、学校でのいじめがどうこう言います。私もそれには漏れていないと思います。親には容姿やら、挙動不審であることやら、からかわれてきました。小学校でなんとなくなじめなさを感じて、中学校ではいじめられて、高校では虚無になっていました。まあ、今更どうでもいいのですが。どうでもいいといいながら、これらに対していまだに言及する以上、僕の無意識はこれらをどうでもいいとは思っていないようです。困ったなあ。

 とりあえず、これについて、誰かに責任を求めようとは思いもしません。親の気質はある程度歳がいってしまえば変えられませんから、仕方のないことです。多感な中学時代には、周りの生徒たちも家庭のことその他もろもろ、ストレスを抱えていたのでしょう。仕方のないことです。僕も、生まれつき授かった性向と能力だけを頼りにして子供時代をなんとか乗り切っていたのです。仕方のないことです。

 案外、努力で変えられることは少ないです。能力や気質なんてものは、遺伝の影響も大きいです。そこに環境の要因が加わると発現するタンパク質が変わって云々ですが、僕からすれば、遺伝子なんてものも環境に過ぎません。それどころか、自分の意志もコントロール不可能なので環境です。周りもみんな一緒です。だから、自罰的にも他罰的にもなりたくないです(新皮質の出した結論ですので、脳の古い部分が怒りや悲しみに震えていないかというと、それは僕にもわかりません。でも、すくなくとも新皮質の思考が僕を支配していたら、こんな記事は書きません)。

 

 さて、そんな僕ですが、意外にも人前に立つと、しきりに努力すると表明してみたりします。周囲との競争に加わっているように見せかけようとします。相手が間違っていると思っても、機嫌を損ねたくないのでとりあえず謝ります(心の中では笑いをこらえているときもあります)。自罰的に振舞ってみたりします。

 この記事やこれまで書いてきた記事につづっている僕本来の態度とこれらの自己開示はいささか矛盾しているように見えます。それにも関わらず、こういう風にふるまってしまうのは、きっと人を信じていないからでしょう。「隠れて生きよ」といって、痛みを最小限にして、競うことを嫌う姿を見せたら、きっとまわりは僕のことを、「なんて向こう見ずの愚か者なんだろう」とせせら笑うと思っています。相手の言うことを突っぱねてしまうと、相手から拒絶されると思っています。相手は、私のことを必ず下に見てくると思っているし、私自身、私の価値観は人並みに劣るものではないかと危惧を抱いています。相手が自分を受け入れてくれるなんて信頼を心からするに足る相手なんていないと思っているので、弱みは見せられません。このブログも匿名だから好き勝手書きますが、顔が割れていたら、ここに書き付けているようなことはみっともないので書かないと思います。

 

 新年早々、内省的なことを書いてしまいました。この問題は今後も触れていくと思います。とりあえず、今日はここまでにしておきます。今年は多少、我を通してみたいなあ。

一年の計は元旦にあれども。

 こんにちは。詰んでる君です。誰も読まないであろうブログを書きます。

 

 いつしか、新年を迎えてしまっていました。「一年の計は元旦にあり」とは誰が言ったのでしょうか。元旦/元日にこのさき一年のことを思ったとしても、人の信念などもろいものです。簡単に崩れてしまいます。

 しかし、その初日から、これまでズルズルと先延ばしにしてきたことを案の定手を付けないでいると、どうも幸先がわるそうです。今日という一日は、そういう幸先の悪さを感じさせながら終わりました。

 このごろ、どうも停滞気味です。何一つ手につきません。これでは将来のオマンマが食べられません。社会で生きるためには仕事をこなして、人前に出て、というのが必要です。それだのに人とも会いたくありません。人と会うと疲れます。どんなに親しい人間であっても、他人です。信用するなんてことはできません。たとえ、相手が世間一般的に見て信用に足る人間であったとしても、そんな彼/彼女も僕にとっては煩わしい存在であったり、忌まわしい存在になりえます。だから人を信じません。人には本心を話しません。これは、もう癖です。本心の話し方なんて知りません。というより僕自身にもわかりません。

 人生詰んでも酒を飲むというのはこのブログのタイトルですが、やはり僕は、詰んでるなりに元日にも酒を飲んでみました。酒を飲むと、普段なら一人でいても気にならなくて、ヘラヘラ笑っています。ところが今日の独酌はどうでしょうか。何も楽しくありません。焦燥感と罪悪感が入り乱れています。アルコールにさえ、見放されたのでしょうか。そして、何より寂しい気がします。なぜ寂しいのかはわかりません。何しろ、僕は人といると、たとえ相手が親類だったとしても、消耗しきっているのですから。孤独を愛するのと、孤独を嫌うのは、違う軸上の出来事なのでしょうか。

 最近、これまでの流れを断ち切るために、自分の興味のあることでも探してみようかと思案していました。少し作業もしてみました。ところが、何をやっても、精彩を欠いた感じです。一年の計どころではありません。南無。

僕の夢の話。隠れて生きよ。

 こんにちは。詰んでる君です。

 

 僕に夢なぞありません。まして具体的な展望もありません。そこにあるのは、精神疾患一歩手前のメンタルと、だらしなくたるみ切っていて、情けなくむくんだ赤ら顔をひっつけた体だけです。それでも、なんとなく、夢を見たくなりました。なにかしらを書いてみます。

 

 僕は基本的に学校の勉強は嫌いです。それでも、学校の勉強くらいしか取り柄がなかったので、それなりにはこなしていました。そんな僕が、一つだけ、学校の勉強で心惹かれたことがあります。それがエピクロスの快楽主義です。

 

 過去も現代も、幸せというものがフォーカスされることに変わりはありません。人間は幸せになりたいものです。そして、現代の社会・経済では、社会的成功を収めて、お金を貯めこむことこそが、成功のロールモデルであるようです。お金は幸せの代替手段であるとされます。お金があるから、飯を食える、服を着ることができる、寒風をしのぐことができる。お金があるから、教育を受けることができる。お金が有り余るから、美酒を楽しみおいしいものに舌鼓を打つことができる、ハイブランドを身にまとうことができる。マンションを買って、カリモクなんちゃらを置いて、有機ELの巨大テレビなどを置いて見せる。労働者を使役して心地よいサービスを享受する。

 お金がある程度までは人のQOLと相関することは間違いないでしょうが、他方で、お金は苦しみとの引き換えに得ることが多いです。煩雑な人間関係に身を置き、臭いけど権力と金のあるおじさま方にすり寄ってみたりする。投資をしてみては、ドナルドおじさまの身勝手で暴落した株価に胃が痛む。緑のなか気持ちよく散歩をすることを惜しんで、仕事に打ち込む。

 

 

 それでは、苦しみと幸せの収支決済はなんぼのものなのでしょうか。幸せをめざして贅沢をするためには、その分「おべっかを使うべきおっさん」が増えます。苦虫を噛みます。稼げば稼ぐほどよいというのは本当なのでしょうか。

 ここからは、議論に先述のエピクロスの快楽主義を導入してみましょう。快楽主義とは、苦痛の根源を取り除くことで得られる快楽を重視する思想であると、僕は理解しています。贅沢をそぎ落とすことによって、贅沢の刹那的な効用を得るために払われる犠牲や長期的な損失を抑えようとしたものです。快楽主義という名前から一般的に連想されるような、放蕩はしません。たとえば、お酒を飲みすぎることはその場では楽しいけれども、二日酔いになったり、疾患のリスクが上がるから、快楽主義には適っていません(僕も猛省します)。

 快楽主義は、苦しみと幸せの帳尻合わせをミニマムに解決する方法だと思います。帳尻合わせには、ストレスを相対的に小さくするか、幸せだと感じることを相対的に大きくするか、道はどちらかです。前者が快楽主義で、後者はいわゆる現代における成功のロールモデルです。

 しかし後者には問題があります。人間が「差分検出器」であるという問題です。どんなに暮らし向きがよくても、慣れてしまえば、それが物足りなくなります。暮らしの中に、「差分検出器」が検出可能な幸せを求めると、仕事に精を出し続ける必要が出てきます。それは持続可能なのでしょうか。僕には無理です。

 対して、快楽主義は凪のような状態です。苦痛がない時点で幸せなので、幸せにあることが苦痛となりにくいものと考えられます。もちろん、「差分検出器」問題はこちらにもつきまといます。しかし、もともとの状態が質素なので、贅沢をすることも、それに幸せを覚えることも簡単なのです。これを実現するために、うつ病になるほどの努力の必要がどうしてありましょう。

 

 さて、話は戻ってまいりまして、僕の夢の話です。僕の夢は「隠れて生きよ」の実践です。記事タイトルにも入れたこのお題目ですが、エピクロスの有名な言葉です。権力争いの人間関係の煩わしさを避けて、身体に障らぬように酒と食事を摂って、哲学を語りあう友人がいて――そのような場所でひっそり暮らしなさいという含意があります。現代社会から見れば実現不可能でしょう。だからこそ、夢なのです。

 それでも何とか現代に落とし込もうとすると、どうなるのでしょうか。職業は社会的責任が小さく、実力を問われない、一人でこなす仕事になるでしょうか。非正規雇用なのはほぼ間違いなしですね。あるいは、自営業という手も考えられます。自営で口に糊するには相応のスキルが必要です。その点では難易度が高そうですが、軌道に乗せられさえすれば、多少は持続可能性がありそうです。いずれにしろ、老後の不安は尽きませんね。人生に年限を決めて、そこからの余剰分はよほど生きたいという強い思いと境遇、健康な身体が残されていなければ、自死を選ぶことも視野に入ります。

 居所は生活に困らないように地方都市の郊外で、築年数の古い一軒家の借家でもあればいいのですが。お金がかからないことと、集合住宅ではないことは、非常に重要なファクターです。家具はリサイクルショップから好みの調度のものを少しくらい集めてといったところでしょうか。これについては、深く考えても仕方ないことです。

 後は、小さな交友関係さえ保つことができれば、「隠れて生きよ」の基本が完成します。しかし、「30過ぎた昔の友達が汚い風貌でボロ借家から出てきて、『さあ哲学の時間だ』と言って地に足のつかぬことを語ってきた」としましょう。相手方の立場から見て、この交友関係は維持すべきものなのでしょうか。あと10年もすれば、お金を無心しにきそうです。せめての話し相手になってもよいという程度の、人間性の高潔さを養う必要がありそうです。人並み以上の人生観で人をひきつけなければ難しいでしょう。

 

 「隠れて生きよ」の夢ですが、このなれの果てに孤独死というゴールが待ち受けていそうです。50を過ぎたからといって、死のうと思っていても死ぬことを先延ばしにしていたら死にきれず、僅かに残った貯金の切り崩しで口に糊する。あってくれる友人もいない。そんな生活のどこに自助のモチベーションがあるのでしょうか。いずれ汚かった身なりは、ますますひどいものになり、ゴミにまみれた借家の中。真ん中にひかれた煎餅布団から身動きをとることもせず。年老いた体は、エピクロスのお題目からは考えられないほどにガタが来ている。光合成もできず、土壌から栄養を吸い上げることもできない植物のようになってしまう。「僕の人生はこんなはずではなかった」という思考に埋め尽くされるか、それすら億劫で、禁止していたはずの多量飲酒におぼれている。

 

 はあ、なんとなく夢から目をそむけたくなりました。だれか、こんな僕とともに「隠れて生きよ」の実践について、建設的に考えてみませんか?僕はエピクロスの考えを皮肉るためにこの記事を書いたわけではありません。現代のエピクロスにあこがれて書いたのです。

はじめまして。

 とりわけ、なんの野心があるわけでもない。まして、才能などない。そんな僕が、日々のことを書き綴れる場所がほしいという思いから、ブログというものをやってみようと思って始めました。

 はじめまして。申し遅れましたが、詰んでる君と申します。20代にして、人生が億劫な、社会の外れ値ともいうべき人間です。自己紹介も兼ねて、生い立ちを簡単に紹介します。

 

 僕の生まれは本州では北国の部類。冬になると海からの風が吹きつけて凍えるような寒さに苦しむようなところです。そんな場所で生まれ育った僕は、寒さと戦うべく、幼少の頃から十分な皮下脂肪を身にまとっています。海と山以外は何もないようなところでしたが、それゆえに魚の幸、山の幸のおいしさはぴか一でした。食に恵まれたことも、きっと僕の体を肥やした原因に違いありません。

澄まし汁の中に揺れるウニがいちごのようだと名付けられた「いちご煮」。アワビからの良い出汁と相まって、上品ながら深い味わい。刻んだ大葉を薬味にして。

 

白焼の小麦粉の香りのたつ南部せんべいは、鶏肉の出汁を吸ってふっくらもちもち。冬の味のせんべい汁


 さて、そんな恵まれた体形に加えて、幼いころからのコミュニケーションの難しさを抱えた僕です。僕自身は控えめに生きていたかったのですが、学校ではどうしても浮いた存在になってしまうのです。北国の人の心は温かいといいますが、それは嘘っぱち。窮屈なムラ社会の縮図ともいえる中学校では、辛いいじめの対象になることもありました。友達もごく限られていたし、家族からも時として虐げられる日々。もともとの気性も相まって、すっかり孤独を愛するようになっていました。 

 そんな情けない性格をぶら下げたまま、いたずらに時を過ごしていると、成人式もとうにすぎていました。大学に入ってからは仲良くしてくれる奇特な友達もいてくれて(変わった人の多い大学だったので……)、それなりに楽しい日々だったとは思います。そんな日々の中でも、ふと、電池の充電が切れたように、ゴミを積み上げた部屋に一人こもりきりになってしまうことがあります。一人きりの僕と。気づけば、アルコール飲料の缶が積み上がっていたり。時には、大容量紙パックやペットボトル、一升瓶が並んでいたり。お酒は孤独のパートナーですからね。一人で飲む酒のおいしさは無上です。

 

すっきり辛口で飲みやすい。港町の酒。

 

 もともと、酒飲みとしての素質は高かったと思います。北国の遺伝子でアルコールやその中間代謝物の代謝もばっちりだし。なにより、北国の塩辛くて癖の強い食べ物はお酒にピッタリくるのです。僕の舌はそういうアテにジャスト・フィットしていたのです。どうして酒が進まないはずがありましょうか。

この手の瓶ものは欠かせない。いくらもウニもホヤもある。これぞ佳肴。ごはんにも。 

 

 これからは孤独を愛する酒飲みの心に寄り添った記事を書いていきたいです。もちろんそうではない方も楽しんでくだされば恐悦至極です。どうぞよろしくお願いします。人文系学問などについての、書評などのネタも入れられたら入れていきます。

 僕の性格はこんなもん。